李白詩 月下独酌


独酌無相親 



李白詩 月下独酌


独酌無相親


臨  天海・日光山御本尊目録


天海(1536-1643)
家康の厚い信頼を得、家康没後も秀忠、家光の内外の政務を補佐をした。東照大権現二十五回忌



俵屋宗達・書状

俵屋宗達(生没年不詳)
琳派の創始者と言われ、光悦と姻戚関係にあるとされるが明らかではない。
淡墨を駆使した筆致に光悦の影響がうかがえる。

貴礼井醍醐ノむしたけ


臨  千姫・消息

千姫(1597-1666)
秀忠の長女、母はお市の方と浅井長政の子、於江与の方。
7歳で従兄弟の秀頼の正妻となる。
大阪城落城の際、坂崎出羽守に救出されるが、本多忠刻と再婚。
この間の出来事は歪曲され後生に伝えられる。
忠刻没後、本多家は断絶され、千姫は30歳の若さで江戸に戻り、
出家し天樹院と号し、千姫ご乱行の俗説を産む。
70歳にて波乱万丈の生涯を終える。
瑞々しく華麗な文である。
筆致からは内気な貞淑な平凡な女性像が浮かび上がるが・・・

あやめのめでたさ



臨 松花堂昭乗・長恨歌

松花堂昭乗(1584-1639)
寛永の三筆の一人。
真言密教の法を修め、広く人々から敬慕された。
仏道ばかりでなく、和歌、茶道にも優れ、
書画器玩の見識高い蒐集家としても知られる。
洒脱なしょである。

長恨者楊貴妃也


臨 大久保彦左衛門・書状

大久保彦左衛門(1550-1639)
常に家康の元にあって数々の武勲を立て、
諸侯に列しさせようとする家康の意向を頑固に辞退したが、
重要な会議には必ず列席し遠慮の内発言をしたと言う。
見るからに頑固一徹さを示す書だ。

先度者ゑ門被越候・書状


臨 本阿弥光悦・寄進状


本阿弥光悦(1558-1637)
本阿弥家は本来刀剣の研磨、鑑定、浄拭を本業とした。
書画、蒔絵、陶器などに秀で当代一の文化人と崇められた。 
特に書では寛永の三筆として名高い。
粋人らしい新鮮繊細な書風である。

道風之法華経
一部十巻井箱机



臨  伊達政宗・書状


伊達政宗(1567-1636)
奥州一帯に勢力を伸ばしたが、
結局は秀吉、家康に順次従った。
支倉常長をローマに派遣し通商貿易を求めるなど、
遠大な計画の持ち主だったことが覗える。
一方で、和歌茶道にも通じ、中央の文化を東北に広めた。

関白様会津へ御下向ニ付きて



臨  徳川秀忠・小歌


徳川秀忠(1578-1632)
徳川二代将軍として江戸幕府の基礎を固めた。
人柄も良く学問にも熱心であったという。
豊麗な筆致である。

君ハ初音の郭公松に


臨  藤堂高虎・書状

藤堂高虎(1556-1630)
幼時より武勇の誉れが高かったが、
文学・茶道にも通じていた。

急度申入候
一蔵よりむしろ


毛利輝元・書状


毛利輝元(1553-1625)
元就の孫。
元就より家督を受け、
足利義昭に頼られるなど絶大な勢力を持ち信長秀吉と敵対したが、
信長没後は秀吉に従う。
五大老の一人であり、関が原の戦いでは西軍の盟主に担がれ敗北する。
戦国の風流武将として歌書に秀でていた。

粟備申趣承知候於我等


臨 福島正則・書状

福島正則(1561-1624)
若きより秀吉の武将として多くの戦功を上げる。
秀吉没後は家康に従い、関が原の戦いの戦功などで大大名の名を連ねる。 
しかし、秀忠の譴責を買い、領地を没収され蟄居のまま没する。

態申入候仍大納言此一
両日少御気分悪敷御座候



臨 高台院・消息

高台院(1548-1624)
秀吉の正室。
足軽時代の秀吉に嫁ぎよく内助の功を発揮した。
気丈な一面が現われている書だ。

鶴方へまいる


臨 黒田長政・書状

黒田長政(1568-1623)
秀吉の武将として数々の武功を立てる。
関が原では、三成と折り合いが悪く家康方に付く。

為見廻千鳥貝